
近年、博物館(資料館、美術館、文学館、科学館などを含む)の展示方法が変わってきていると言います。確かに、館内が明るくなったり、触れる展示があったり、体験コーナーなども増えています。博物館に、なぜ、そういった変化が起こっているのでしょう。
市民に等しく知識を開放するために生まれた博物館
博物館というと、皆さんはその役割を、どのようにイメージされているのでしょう。貴重な文化財を集めて大切に保管しているところ、と捉えている人が多いのではないでしょうか。
確かに、文化財などの価値を明らかにして、傷まないように保管し、後世に守り伝えていくことは博物館の大切な仕事のひとつです。
しかし、博物館の根幹的な役割は別にあるのです。
そもそも、今のスタイルの博物館(ミュージアム)という施設が生まれるのは、近代のヨーロッパでした。
多彩な物品や作品を集めて収蔵する施設という意味では、古代ギリシャの時代から存在します。近代に至るまでのそれらの施設では、神への奉納や学者の研究が、収集のおもな目的でした。
それに対して、近代に成立した博物館は、収集した文化財や芸術作品を展示による公開を通して、市民に等しく知識を開放する、ということを目的として誕生するのです。すなわち、博物館は公教育の役割を担う施設と位置づけられたのです。
現代では、公教育の中心には学校があります。例えば、子どもたちの教育は世界のほとんどで無償化されています。日本でも義務教育として、誰でも小・中学校で教育を受けることができるようになっているわけです。
しかし、教育は学校の場や学齢期だけで事足りるものではありません。近年では生涯学習の理念が浸透しており、様々な学び方ができるようになってきています。けれども、教育産業化されているものも多く、誰もが気軽に受けられるものばかりではありません。
公教育として生涯学習をサポートする機関は、実は多くない中で、博物館はそれを担う主要な場なのです。
ところが、日本の博物館がその役割を十分に担っているとは、残念ながら言いがたいと思います。それは、博物館がたどった歩みの紆余曲折が影響しているからです。
近代のヨーロッパで誕生した博物館を日本に紹介したのは福沢諭吉です。『西洋事情』の中で、博物館は「見聞を博くする為に設るもの」と伝えています。福沢は、ヨーロッパの博物館の公教育的な役割をしっかり捉えていました。
西洋に追いつくことを急務としていた明治政府はこの博物館の役割に注目し、維新から間もない明治3年ごろから、創設に着手しています。
ところが、博物館の所管をめぐって、当時の文部省と太政官(後に内務省)で綱引きが起こり、最終的に、文部省と内務省のふたつの系統ができてしまうのです。
その過程で、それぞれの役所の機能的な思わくもあり、文部省の博物館は学校教育を補完する役割が重視されました。一方、内務省から宮内省に所管が移った博物館は、収集品を天皇の御物と位置づけるようになったのです。
その結果、博物館は、教育関係者の利用に適うように、学校教材を展示しているちょっと馴染みにくい施設であったり、貴重な御物なのだから展示品は薄暗い中で恭しく静かに拝観する、というかなり堅苦しいスタイルが定着していったのです。
こうした経緯も影響して、日本の博物館は、本来の公教育施設という考え方から逸れた方向に進んでしまい、それが、未だに払拭されていないように思われます。
だから、欧米の博物館や美術館を訪れた日本人は、明るい館内や、老若男女が訪れ、楽しそうに会話したり、感想を述べ合いながら館内をめぐる様子を見て、驚いてしまうのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。